イヤホンで閉ざしていた世界は

今日はイヤホンを切り口に、感じたことを書こうと思います。

 

 

〜不足感を埋めるように〜

学ぶことで、人生を今より少しだけでも良くしたいと願うのは、私だけに限ったことではないはず。でも、いつそれが成果を出すか、どのくらい実を結ぶかはわからない。もどかしいことです。それでも、学ぶということをずっと血眼になりながら続け、この投資は未来の自分にとって、自己満足以上の何かにつながるはず。そう思いながら、今日もスマホとワイヤレスイヤホンを手に取る。そして、YouTubeやお気に入りのラジオの番組を聴き流しながら、一人だけの学びの時間に潜る。特にこの一年程は、通勤時間や、仕事が休みの日の、ちょっとした隙間時間を見つけては、欠かさず行う儀式となっていました。食器を洗いながら、洗濯を干しながら、時間を無駄にするまいと躍起になっている自分がいました。ただひたすらに、知識欲の赴くままに。それは、時として行きすぎな、異様な執着に囚われた姿だったかもしれません。冷静に、客観的にこの事態を俯瞰して見れたのはつい最近。一時の強迫観念とも思えるそれは、一時より少し落ち着きましたが、未だにイヤホンは、私にとって、欠かすことの出来ない生活の共となっています。

いつの頃からか、足りない自分を情けなく思い、学びや自己啓発には敏感になっていました。TV、雑誌、啓発本、ラジオなど、様々なコンテンツで気に入ったものを見つけては、足りないピースを黙々とはめるように情報に触れていました。が、それはまるでフレームのないパズル。埋めても埋めても不満足で、いつの間にか、自分がやっていることは意味がないのではと、時々感じるようになっていました。

 

 

〜イヤホンをはずしたら、閉ざしていたドアが開いた〜

ある朝のこと。後になってみれば、それは福音と言ってもいいくらいなのではと思うことではありましたが、とにかく、この日の私の気分は少し沈みがちでした。不運にもスマホの充電がされておらず、温存する為朝の学び時間はおあずけに。

電車に乗り、ガタガタと揺れる車内。その時、いつもと何かが違うと感じました。視覚を、聴覚を、触覚や身体を刺激する感覚が、いつもよりクリアに感じられました。顔を上げると、流れる車窓の景色は、一月の朝日を浴びながらオレンジ色に輝いて見えて、それは、ここ暫く感じることのなかった、忘れていたような感覚でした。

電車を降りて、一歩、また一歩と足を運ぶ、そんな何でもないことが、やけに重く、リアルな感覚を神経に乗せて脳に伝わって来る。

古い民家の傍に佇む老木は、冬の朝の冷たい空気に晒されて、余計に寒々しく見えました。

いつもと同じ世界、いつもと同じ景色。

ある意味、この一年程の自分は、未来を、自分の世界を開こうとして、逆に閉じてしまっていたのではないだろうか。イヤホンをすることで、感覚を閉ざし、本当は身近にあったはずの世界の輝きをたくさん見逃してきたのではないか?そう思いました。

とは言え…。やっぱり自分の学びの世界に没入するのも、元々好きだったんだよなぁ。それはそれで続けるけれど、でもちょっと控えめにしようかな。何でもバランスが大事だ。感動は彩りある人生には必要なもの。情動を感じ取る感覚を自ら閉ざしてしまっては、何だかもったいない。

どなたが言っていたことだったか…、閉運という言葉はないけれど、開運と言う言葉はある。運は元々閉ざされていて、自ら開こうとしなければ開かない…、だったかな。

「閉じる」ことはかんたん。耳も心も在り様も。もっと今を、そのままを肌身に感じて、小さな一つ一つを大切にしなければ!その積み重ねが、多幸感を感じるためにも必要なのかもと省みつつ、これはこれで良い学びだったと思うのでした。

 

 

文末に、記事に合わせた詩歌の様なものができたらと思っております。これも一つの挑戦。良いものができたらいいなぁ。

 

『まだ足りず 

  まだ届かずと空を掻き

       視える景色は薄霞みの宇宙(そら)』

『感覚に

   身体に心に響いたものに

   耳を澄ませば

      聴こえる小さな幸せの音』